柳の葉から朝露が落ちる。 俺はその露を斬った。 刀に朝露が光る。 朝の精神統一。 日々の鍛錬が己の剣の腕を上げる。 俺は都に来てからも、日々の鍛錬は続けていた。 吹く風は夏の香りを運ぶ。 あの戦から、一月が過ぎていた。 正歴 5年 初夏 都に来てから俺の生活は変わった。 俺は都の一等地の屋敷に住んでいる。 食事も出るし、身の回りのことも女官がやってくれる。 ほとんど自分でやらなくてすむ。 こんな生活していると、人間駄目になるな。 あれから若頭は、都に帰ってから直ぐに俺をここに呼んだ。 そして直ぐに俺を検非違使にする推薦状を書き、朝廷に送った。 そして俺はその返事を、今もここで待っていた。 蝉の声が聞こえる。 その声が辺りを賑わす。 一週間しか生きられない者、その声は精一杯、世を賑わしている。 精一杯生きようとしている。 俺に何が出来る。 何をさせたい。 太陽の光が眩しくて、俺は目を瞑る。 風を感じる。 ふと、気配を感じた。 「往人様?」 女官は、何か確かめるような口調で俺を呼んだ。 俺は刀を収め、女官の方を向く。 女官は袖を口元に当て、笑っていた。 「うふふ、往人様は本当に不思議な方ですね」 「そうか?」 「ええ、それはもう、伊周様の仰ったとおりです」 伊周様というのは、若頭のことだ。 後からわかったことだが、若頭は時の摂関、藤原道隆の御子息であった。 偶然とは恐ろしいものである。 それとも、必然?運命か? 「若頭が仰ったとおり?何とも滑稽な踊りをする者とでも仰っていたのであろう」 「いいえ、空に憧れる、飛べない鳥。はたまた、風に吹かれ身を委ねる葉のような方と仰っていました。 たいそう風靡な方であらせられますね」 「やめてくれ、そんな風に呼ばれるのは性に合わない」 俺もここに来てから言葉使いを治してきたが、まだまだだな、たまにボロが出てしまう。 女官は尚も笑顔で俺に話し掛けた。 「いいえ、往人様にぴったりですよ」 そう断言されると、俺はもう苦笑するしかなかった。 「往人様」 往人、今俺はそう呼ばれている。 若頭が一時的に俺につけた名だ。 「其方は、何をしておる?」 若頭に言われ、我に返る。 そして俺は今、何とも滑稽な姿だったことに気づいた。 言うなれば空を仰ぐ鶏か? 何故俺は両手を広げ、風を感じていたのか。 俺自身、良くわからない。 空を飛ぶ鳥に憧れていたのか? 何にせよ、今俺は恥を曝しているということだ。 「はは、は」 苦笑いを浮かべながら若頭の方を向く。 若頭は不思議そうに俺を見ていた。 そして俺にこう言った。 「其方は、翼人か?」 翼人? 何だそれは。 翼を持つもの? そんな人がいるのか? そんな人の叡智を超える存在があるのか。 もしそんな人がいるのなら、一度逢ってみたいな。 「その様子から見ると、余の勘違いのようだな。」 困惑していた俺の様子を見て、若頭が言った。 「其方があまりにも空へ飛び出しそうだったのでな、翼人かと思っただけだ。気にしないでくれ。」 若頭は俺が飛べると思ったのか・・・。 そういえば、若頭は翼人を知っているような口ぶりだな。 「翼人とは何だ?」 溜まっていた疑問を若頭にぶつけた。 俺の問いに若頭は目を見開く。 「何と。翼人を知らないとな。翼人とは文字通り翼を持つ者のこと。 詳しいことはいずれ分かるだろう。はは、其方は不思議な者だ。いずれ逢う機会が来よう。 捜さずしても向こうの方から近づいて来るかもしれないな。何せ、空へ往こうとした人だからな」 若頭は空を見上げながら言った。 「空か・・・」 俺もつられて、空を見上げた。 そこには、一面に広がる青空があった。 そこに舞う鳥たち。 俺はあそこに往きたいのか? それとも、もっと空の高みへ・・・。 「そうだ!」 若頭の声に、またもや我に返る。 俺には妄想癖があるのか? 若頭はまた何かを思いついたらしく、目がきらきらと輝いていた。 また突飛な事でも考えついたのか? さっきは、俺を検非違使に推薦すると言っていたから、今度は大臣か? 「其方の名、考えついたぞ」 俺の期待は外れた。 ま、俺の考えの方が突飛だったな。 名か・・・。 そういえば忘れていた。 「其方が名を考えつくまでで、よい。それまで、こう呼んでも良いか」 別に許しを乞うことはない。 若頭の方が、数段に身分が上なのだから。 しかし、若頭が考えついた名。 俺を見て考えついたことだから、実に興味深い。 「何て名だ?」 俺は若頭に訊いた。 「空へ往く人と書き、往人というのはどうだ?」 やはりさっきの俺の行動が尾を引いていた。 しかし・・・。 往人。 良い名だと思う。 俺の名としては、しっくりこないが、いい感じだ。 「いい名だ。ありがたく名が思いつくまで、名乗らせてもらおう」 俺の応えに若頭は満足したようだ。 「いい名か。そう言ってもらうと、何か嬉しいものがあるな。」 若頭は照れていた。 「本当にいい名だと思う。俺に息子が出来たら、迷わずこの名をつけるだろう」 俺の息子の名が往人。 空へ往く人。 本当に往ってしまったらどうするんだ? きっと、俺の手の届かない場所がいいんだろう。 空には何かがあるんだ。 だから往ってしまう。 気づいたら俺は、苦笑していた。 「気に入ってくれたか」 若頭が嬉しそうに言った。 「ああ、存分にな。」 俺も楽しそうに言った。 空に鳥たちが羽ばたきだした。 ほら笛の音が聞こえてくる。 この音は、戦が終わった合図だ。 「どうやら、この戦、余たちの勝ちのようだな」 そう、俺たちは勝った・・・。 勝利のほら笛は、高らかとその音を辺りに奏でていた。 「往人様。そういえば、お名前の方はお決まりになったのですか?」 女官は思い出したように言った。 俺の名。 実は、大体決まっていたりする。 「ああ、名前だけはな」 「そうでしたか。良かったら聞かせてもらえませんか?」 女官は待ちわびれたという表情だ。 女官は暇があれば俺の名について、いい案を考えてくれていた。 その度に俺はその名を断ってきたのだが。 「柳也だ」 その名が俺の名。 ワレ、ヤナギナリ。 「柳也様・・・ですか?」 さすがに自分の考えた名前の上をいっているとは思わなかったのか、女官は不満気だ。 「不満か?」 「あ、いえ。往・・柳也様のお名前にしては少し淋しくないですか?」 俺の名前にしては? 俺はもっと楽しい名前が似合うのか。 「淋しい?」 俺の問いに女官は頷く。 「柳也様は、騎兵にも勇敢に立ち向かい伊周様を救った御方。 そして、翼を持つ鳥の様に空へ羽ばたいて往きそうな神秘的な感じを持つ御方です。 そんな方に柳なりとは、淋しく思って当然ではないですか?」 人から聞いた話には尾ひれが付くとは、よく言ったものだな。 確かに俺は騎兵を倒したが、勇敢に立ち向かったわけではない。 俺の運が良かっただけだし、若頭を助けようとしたわけでもない。 結果的にこういう状況になっただけだ。 後者については否定できない。 俺がやってしまったことだからな。 考えただけでも恥ずかしいことだ。 「俺はそんな大層な人間じゃないさ」 その言葉は、諦めにも似た言葉だった。 何に対してかは分からない。 ただ、何かにそう思っていた。 そんな俺の言葉に、女官は少し戸惑い気味だった。 今俺は、どんな表情をしているのだろう。 ふと、そう思った。 「あの、どうして柳なのですか?」 言葉に詰まっていた女官が、やっと会話の糸口を見つけた。 「柳の由来か?」 「はい。柳といいますと、よく魍魎のすまう木と言われますし、たれた葉が武士の精神には不向きかと思われますが・・・」 武士の精神はともかく、魍魎については知っている。 正に俺にぴったりだ。 戦場で生きている俺は、生きているのか、死んでいるのか、分からない人間だ。 そんな奴は、魍魎が住んでいると言われる木が良く似合う。 それに・・・。 「さっき俺が飛んで往きそうって言っていただろ?俺は本当に空へ往ってみたいのかも知れない。 空に何があるのか、何が待っているのか、確かめてみたいのかもしれない。 だけど、俺は決して飛べないことを知っている。いくら風を浴びようと、無理なんだ。 お前はどこに向かっているのだ?どこへ往きたいのだ?目を閉じたら連れっていってくれるか? この翼の無い体を地上に残して・・・。」 「柳也様?」 最後の方は、俺も何を言っているのか分からない。 何をひとりで興奮しているのかさえ分からない。 女官の声にただ、自分が言っていたことに対して驚いた。 少し、心を落ち着かせる。 「すまない、何を興奮していたんだろう」 女官は良いんですと応え、俺の話を聞こうとしてくれる。 その気持ちが嬉しかった。 「例え飛べなくても、風だけは感じていたい。風を感じてゆっくりと揺られていたい。 そんな風に思っていたら、この庭の柳が目に入ったんだ。 だから俺は柳の様に風に揺られて風を感じていたい。そう思い、我は柳なりと書いて柳也にしたんだ」 今度は落ち着いて話していた。 心が透き通っている感じがする。 「そうですか。そんな素晴らしいお考えでしたなんて・・・。 何も知らないで失礼なことばかり言っていました。お許しください」 女官が詫びを入れる。 そんなこと気にしていない。 俺だって暴言ばかり吐いているのだから。 「気にするな。俺だって・・・」 途中で気づいた。 俺はいつの間にか、普通に女官に語りかけていたことに。 「俺だって君に迷惑をかけていたのだ。お互い様だろう」 急に口調を変えた俺に女官は目を丸くしてえたが、すぐに苦笑していた。 「フフフ。柳也様、いきなりそんな改まった話し方しなくてもいいですよ。何だか柳也様らしくないですから」 俺らしくないか、そうかもしれないな。 「あら?誰でしょうか?」 いきなり騒音を上げて近寄ってくる者がいた。 しかし、その犯人は直ぐに分かった。 若頭だ。 若頭は勢い良く庭に入ってきた。 その手には、文が握られていた。 「往人!其方の検非違使入りが受諾されたぞ!」 その言葉に耳を疑う。 本当のことなのか? 「・・・信じられない。」 「この文を見てみろ。朝廷自らお書きになった文だぞ」 若頭はそう言って手に握りしめていた文を俺に渡す。 俺はその文を受け取り、隅々まで見渡す。 確かにその文には俺が検非違使になることが書かれてあった。 そして、天皇を前にして検非違使になる儀式をするらしい。 何度見て確かめても、信じられないことだ。 「おめでとうございます、柳也様。これで今日2度目の吉報ですね」 「2度目?他に何かあったのか?」 女官の言葉に不思議に思った若頭が言った。 「はい、伊周様。往人様はさっきお名前をお決めになり、柳也様になったのです」 「柳也?我、柳なりか・・・。さすが往人・・・、ではなかったな、柳也。 余が考え付きそうにも無い名前を思いつきおる」 若頭はあっぱれと笑っている。 それにつられて女官も笑っていた。 まだ信じられないことだ。 俺は検非違使になるんだ。 急に笑いがこみ上げてきた。 何に対する笑いなのか、良く分からない。 1つ言える事が、この笑いは喜びや楽しみの笑いではないことだ。 何かが頭の中で横切った。 いつかの夢の記憶か? しかし、もう忘れてしまったことだろう。 何故だか、今は気にならない。 今はただ、可笑しかった・・・。 夢を見た。 その夢は、現実なのか? それとも、幻想なのか? 一羽の鳥が、空へ飛んでいく夢を見た。 陽光が揺らいだ。 一羽の鳥がひるがえり、空を目指していた。 その先はもう、眩しくて見えない。 今目を瞑ったら、連れて行ってくれるだろうか? この翼の無い体を地上に残して・・・。 そこにはただ、蝉の声が響いていた。 地上に落ちているのは、蝉衣と動かない蝉。 今はまだ、風の中。 何も出来なくて、悔しくて空を見上げる。 流れる雲を見送り、掴んだ蝉を放した。 空を飛び、そして落ち、動かなくなる。 また掴んだ蝉を放した。 空を飛び、そして落ち、動かなくなる。 同じことの繰り返し。 決して変わらない現実。 ふと、鳥が気になり空を見上げる。 鳥はもういない。 AIR BLUE 中編 完 ■BACK■ ■LIST■ ■HOME■ |