Toi et moi
           〜 mon aime fils 〜
                  5

優しい風が吹いていた。
草が風に靡き、そして、さらさらと心地よい音色を奏でていた。
空は蒼く。
そして、清んでいた。
聴こえてくるのは風の音ばかりで…。
さっきの工事現場の音は聴こえてこない。
こんな風を、身体中で浴びたら、どんなに気持ちいいだろうか?
そして、翼を広げ…。
空の高みへ飛んでいけたら…。
見上げる空は、ただ蒼くて…。
まるで、誰かを隠しているようで…。
だけど、見えなくて…。
わたしは…。
あそこへ往きたいと思っている。
あそこに居る、誰かを迎えに…。
誰かはわからないけど…。
それは、わたし達の大切な人。
わたし達が、命に換えても守りたいと思った人。
だけど…。
わたし達は守れなかった…。
今も続く、悠久の悲しみ。
救えなかった…。
どれだけの悲しみが生まれたのだろう…。
どれだけの苦しみが生まれたのだろう…。
どれだけの命が消えていったのだろう…。
そしてわたし達は、我が子に重い枷をかけてきた。
きっと叶うという希望を託し…。
でも…わたしは、かせたくない。
それは、わたし自身のわがままだとわかっている。
もしかしたら、お母さんも同じ気持ちだったのかもしれない。
それでも、あの子を助けたいと思う。
その気持ちは、母親としての資格を捨ててまで優先すべきことだった。
だから、わたしはここにいる。
でも、往人を前にするわたしは違う…はず…。
薄っすらと滲んで見える往人の顔…。
わたしは…愛しく思う。
それは、世界で誰よりも…きっと…。

気づけば、往人がハンカチを差し出していた。
「…ありがとう」
往人からハンカチを受け取り、涙を拭く。
なぜわたしは泣いていたんだろう。
わたしはわからなかった。
今も変わらない切ない気持ち…。
それはどうしようもなかった。
往人にハンカチを返そうとすると、往人は食べかけのパンを頬張っていた。
往人はわたしの話を真剣に聞いていてくれた。
パンも食べずにずっと…。
わたしは胸が一杯になる。
そうね…往人はわかっていたのかもしれない。
わたし達の血が、感じさせていたのかもしれない。
きっと、無意識に往人は話の重大さに気づいていたのね。
ゆっくりとパンを食べ続ける往人。
わたしは微笑ましくその様子を見ていた。
往人はわたしの視線に気づき、こちらを見た。
「ん?どうしたの?」
わたしが訊くと往人は持っていた菓子パンをわたしに手渡した。
「食べて…ないから…」
「ありがとう」
わたしは笑顔を往人に返す。
今、となりに往人が居る。
往人はやさしい子…。
そして、孤独な子…。
これから往人はどうするのだろう。
そう思うと、切なくなる。
だけど、往人ならやっていける気がする。
わたしの勘がそう言っている。
わたしは母親として何か出来ることがあるだろうか?
何が出来たのだろうか?
もうすぐわたしは…。
そして、菓子パンを頬張った。
パンの中に入ったクリームがあまくて…おいしかった…。

「ん〜、ぷはぁ〜」
パンを食べ終わり、身体を伸ばしながら草むらに倒れこむ。
少し、くすぐったい気もしたけど、気持ちよかった。
草の青い香りがして、とても清々しくなる。
そして、蒼い空が一望できる。
「往人もやってみたら?気持ちいいよ」
わたしがそういうと、往人は同じように草の上に寝そべった。
こういった堤防の草むらなどは、犬の糞等が気になるとこだけど、それは座る前に調べておいたから大丈夫。
心置きなく寝そべれるってものよ。
「この空に…少女がいる…」
つぶやくように往人は言った。
『どうして空に居るの?』
『どうして悲しい夢を見るの?』
『どうして大人になれないの?』
わたしはお母さんにそんな質問をした。
お母さんはひとつずつ教えてくれた。
それはもう、気が遠くなるようなくらい前の話で、お母さんも詳しくは知らなかった。
でも、その思いは受け継がれ今に至る。
知らなくても、血でわかる。
お母さんはそう言っていた。
それは本当だった。
わたしは、あの子と出会って、わかった。
きっと、空に居る少女は、大切な人を守ろうとしたんだと。
それがわたし達のご先祖で、わたし達はきっと、少女を守りたかったんだと。
守りたいのに、守れなくて…。
逆に、守られて…。
そして、少女は空へ往ってしまった。
ご先祖も少女が空で幸せなら、それでよかったと思う。
だけど、少女は苦しんでいた。
永遠に悲しい夢を見つづける。
そんな悲しいこと、ご先祖は許せなかった。
だから助けたいと思った。
少女を幸せにしたい。
少女の笑う顔がみたい。
きっと、ご先祖も同じように苦しんでいたと思う。
そして、その思いは我が子に託されていく…。
少女を助けたいと思う血…。
わたしは、それを誇りに思う。
いつかは叶うと希望を託し…。
わたし達は旅をしてきた…。

往人を見ると、往人静かに寝息を立てていた。
きっと、たくさん歩いたので疲れたんだろう。
わたしも、目を閉じた…。
さらさらと揺れる草の音。
やわらかな風が気持ちいい。
体の力が抜けるようで…。
いつしか私も、眠りについていた…。

『それは、わがままなの。お母さんね、あなたと一緒に居ることは出来ないの…』
「どうして?お母さん、一緒に旅するって言ったじゃない!?」
『何にでも、別れはあるものなの…。お母さんね、もうこれ以上一緒には旅が出来ない身体になったの…』
「そんなことないよ!!お母さん、あんなにたくさんの人を笑わせていたじゃない!!」 『…前に話したよね?空に居る少女の話』
「う、うん…」
『お母さんのお母さんも、そのまたお母さんも、その子を助けることだけを考えて旅をしてきたの』
「…知ってる」
『うん。でもね、お母さん達はその子を助けられなかったの。とても悲しい思いをした…。お母さんが生きてきて、一番辛かったこと…』
「…………」
『もう、そんな悲しみを続けてはいけない。そう思って、お母さん達は力を込めてきたの。いつかわたし達の力が必要な時、それを解き放って使って欲しい。そう思って…』
「えっ?」
『力が衰える前に、お母さん達は力を込めていった…。そして、お母さんは、お母さんと別れたの』
「いやだ!!いやだよ!!」
『あの時、芸をしている途中、お母さんは力の衰えを感じたの。もう、これ以上衰えてはいけないの。わかってくれる?』
「わからないよ!!わからないよ、お母さん…」
『そうね。今はわかってもらえないと思う。お母さんもそうだったから…。でもね、いつか、きっとわかる時がくる』
「だって…」
『お母さんは、あなたの中に居る…。どんな時でも、見守っている。楽しい時、嬉しい時、苦しい時、悲しい時どんな時でも、お母さんはあなたの側に居る…』
「うっぐ、うぇっぐ…」
『だから、ね?泣かないで…』
「…わからないよ。わからないよ…」
『この人形は、あなたのもの』
「いらないよ!!そんなもの!!お母さんが居てくれなきゃ、何もいらないよ!!」
『……この人形はね、さっき言ったお母さん達の思いの結晶…』
「えっ?」
『今からこれはあなたのもの。捨ててしまっても構わない。利益の為だけに使っても構わない。でもね、きっとわかるときが来る。この人形に込められた思いを…』
「…………」
『それはね、きっと辛いことになると思う。だけど、挫けてはダメ。きっと、そのとき、何か出来るはず…。諦めてしまってはそこですべては終わってしまうの。だからね、わたし達は強く生きましょう。どんな時でも、強く、そして、笑顔で…』
「笑顔で?」
『お母さんは笑顔が大好きなの。だから、すべての人に、笑って欲しい…』
「わたしも、笑顔が好き…」
『強く生きることは決して簡単ではない。でも、きっと後悔はしない』
『お母さんはね、あなたを授かったことが、一番の幸せだった…』
「お母さん?」
『たくさんの幸せをあなたから貰った…。わたしには、十分すぎるくらい…』
「…………」
『だからね、今度はあなただけの幸せを見つけて』
『本来なら、許されないことかもしれない。でも、これはお母さん達がずっと思っていたこと。みんなわかってくれると思う。ただひとつの、わたしのわがまま…』
「わたしの幸せは、お母さんと一緒にいて、旅をすること」
『ダメなの。それはわたしのわがままだから…』
「えっ?」
『今から、あなたはわたしが言ったことを忘れてしまう。それは、お母さんが引き継いだ能力のひとつ』
「そんな…わたし、忘れたくない。お母さんとの思い出だから…忘れたくない」
『必要な時になったら、思い出すの…。でもね、思い出さないほうがいいかもしれない。それがなにを意味するのか、わかる時だから…』
「でも、でも…」
『もう、お別れの時間。お母さん、幸せだった…。これ以上ないくらい…。だからね、あなたは、ずっと、笑顔でいてね…』
「いや、いやぁ」
『さようなら』

遠い過去の思い出…。
母との別れ…。
わたしはわがままばかり言っていた…。
母が必至に伝えようとしていたことに気づかず、ただ、わたしは自分の意志だけを母に押し付けていた…。
でも、母はそんなわたしのことをなだめるように、そんな声でやさしく話してくれた。
人形を差し出されたとき、わたしは母の手をはたいた。
母はわたしを叱らず、落ちた人形を拾い、そしてわたしに手渡した。
わたしは人形が憎かった。
そして、なにより空に居る少女が憎かった。
わたしと母を別つモノが憎かった…。
いつでも笑顔でいて…。
母の言葉…。
わたしは、なにより母の笑顔が好きだった…。
母と旅する中、いろんな人が笑顔になっていく。
それが楽しくて、不思議で…。
とても、誇らしげだった…。
そんな母との別れ…。
なぜそんなに空に居る少女に固執するのか、わからなかった…。
目の前で、母が消えてしまった時、始めは何が起こったのかわからなかった。
まるで、始めから居なかったように…。
自分の目を疑った…。
気づけば、走り出していた…。
母を捜し、必死で走りつづけた…。
転んで怪我をしても、泥だらけになっても、走りつづけた…。
月が明るかった…。
テントに戻っているかもしれないと僅かな希望にすがり、戻ってみた。
しかし、母はそこにはいなかった…。
代わりに、母がいつも使っていた人形が落ちていた…。
わたしはそれを投げ捨てようとした。
でも…出来なかった。
それは唯一母から貰ったモノ。
母と一緒に旅した証。
そして、わたしは一晩中泣きつづけた。
なにもかもわからないまま、泣きつづけた…。
朝になって、わたしは母の言葉を思い出していた。
わがまま。
母はそう言っていた。
自分のわがまま…。
一緒に居たいと思うこと。
それは、わたしのわがままのはずなのに、母は自分のわがままだと言っていた。
母は苦しんでいた。
それがわかったのは、もっと後のことだった。
空に居る少女はもっと苦しんでいた…。
母の思いを、言葉を思い出すうちに空に居る少女のことに興味が出てきた。
そして、悲しみから救いたいと思うようになった。
自分が空に居る少女を憎むのは筋違いだった。
自分を恥じ、そして、わたしは空に居る少女の為に生きることを決心した。
母が最後に言った笑顔でいてという言葉を胸に…。
人を笑顔にすることが生きがいといった母のように…。
最後まで笑顔だった母のように…。
わたしはありたいと思った…。

気が付けば、あたりには赤い世界が広がっていた。
夕日がすべてを赤く染め美しく彩っていた。
昼間の優しい風も、少しひやっとするくらいで、それでも、気持ちが良い。
夏始まったばかりで、まだこれからどんどん暑くなるだろう。
ふと、となりを見ると、往人がまだ寝息をたてていた。
往人の顔もほんのり赤く染まり、往人の可愛さを違った角度で演出してくれていた。
…………。
ん?赤?
赤、紅、あか、アカ。
そして、夕日…。
何か重大なことを忘れているような…。
のわぁ〜〜〜〜!!!!
もう、6時をまわっているじゃない!?
どうしよう、まだかなり歩かないといけないのに…。
それに、もうすぐ日が落ちちゃう。
ああ、こんなときどうしたらいいの?
ここらへんで野宿をすることになるの?
わたしは馴れているからいいけど、往人は初めてだから大丈夫かしら…。
とにかく、まずは歩かなきゃ。
「往人、起きて」
往人の体を揺らし、往人を起こす。
往人は眠たそうに、目を擦りながら起き上がる。
あ〜、もう仕草が可愛くて抱きしめたい〜!!
「寺に帰れる?」
うっ!?
往人にキツイ質問をされてしまった。
「大丈夫よ」
と、往人に微笑みかける。
しかし、それは空元気だった。
とにかく、寺に向かって歩かなければならない。
そして歩き出した。
ふたつの影が長く伸びる。
何度も手を繋ぐタイミングを逃してしまう。
それがもどかしくて、それで勇気が出なくて…。
ひとつになれない影と影が歩いていた…。

「どうしたのですか?こんなところで」
聞き覚えのある声が、後からやってきた車から聞こえた。
窓から住職さんが顔を出してきた。
「えっ!?なんでこんなところにいるんですか?」
わたしは何がなんだかわからず、ただ間抜けな質問をしていた。
「私は常磐の帰りです」
「あ、そうでしたか…」
常磐とは月に一回の先祖供養ので、住職さんがいろいろなお宅に行きお経を上げることで、
住職さんのお仕事だった。
ここで住職さんに会えたのは、神様の思し召し。
「よかったら、乗っていきますか?」
その言葉を待っていました!!
キュピーンと音が出るほどの目つきで住職さんの方を見た。
「良いんですか?」
「いや、まぁ、そんなうるうるとした目で見つめられても…」
「ああ、すいません。御厚意ありがとうございます」
かくして、わたし達は車で帰ることが出来た。
わたし、住職さんにお世話になりっぱなし…。
なにか、御礼が出来ないかな…。
そうだ。
「あ、住職さん」
「はい、何でしょうか?」
「もう夕飯の買い物は済ませましたか?」
「いえ、まだですが…」
「なら、今日はわたしに作らせてもらえませんか?」
「それは助かります」
「いえいえ、住職さんにはお世話になりっぱなしなので、これくらいは当然ですよ」
これで少しは住職さんに恩が返せるかな。
「往人は今日、何が食べたい?」
「…まかせる」
う〜ん、その答えは主婦にとってかなり問題だったりするのよね。
今有る材料では…よし、あれを作ろう。
初めて往人に手料理を食べさせてあげられるし、住職さんに恩が返せるし、一石二鳥。
そうして、うきうき気分でお寺まで帰った。



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